自作の作品解説などについて

正直なところ、自分の作品について後から色々と解説するのは見苦しいと思うようなところがありまして。結局のところ、誤解されたり正しく理解されなかったりするのはそれは「自らの筆が至らぬ」結果であるから甘んじて受けるべきではないのかと思ったりもするわけであります。


そういうのを常日頃考えているわけなんですが、先日kindleで『めきし粉 幻想小説短編集』という小さな作品を出したわけなんですけれども、珍しく告知前にレビューが入っているわけです。 

まぁ、面白かったつまらなかったという話はあると思うのですが、どうも気になったのがそのレビューにある「内容がない」という評ですな。「読む意味はないです。」とまで書いてある。 

「自分には内容がわからない」「自分には意味が分からない」というのでありましたら、こちらが反省するべき所でありますが「内容が無い」とはなんだろうなぁっと。実はこの短編集には、テーマ性やメッセージ性を、いささか込め過ぎたと思って反省していた次第なんですが、なんだろうこれは?と。 

ちょっと気になってキンドルの管理画面を見ましたところ、告知前なので「既読9ページ」と表示されている。58ページぐらいの本なんですが、まだ通して読まれた方はいないみたい。
この数字は読書端末などとの同期のタイミングで必ずしもリアルタイム更新ではないのですが、普通は書評を書くときには、横に開いておりますでしょうから通信はあるはずだよなぁ。少しばかり読まれている上でのレビューなのか、読まれていないのか気になる所なわけであります。


でもまぁ、折角ですので少し自分でも「こういう意味や内容があるのですよ」と解説をしてみようかしらと。 
もちろんこうした解釈は絶対なものではありませんし、当然、読者の人が「わからねぇよ」って言っていただいても結構なものなのです。こうした内容でこうした意味も読み取れるのですよっていう一つの読書ガイドとして見てもらえると幸い。もちろん想定していることを全部書いてませんから、別の側面を見つけたり考えていただくのも面白かもと。もちろん作者が想定していない意味合いが生まれている場合がありますし、また作者の解釈だって間違っていることもあり得ます。 ただ少し知っていただくと作品の見方が変わるかもという点ですな。当然、言わずもがなの話も含んでいるのでご勘弁を。


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全体像として、この短編集の構造っていうのは、頭がぱんくして人語を話す変な猫に出会う男の話と、病気で田舎に引っ込む話の間に、いくつかの短編を入れていることで、その原因になった世界観であるとか未来観であるとかを暗示させる形になっております。その部分に社会批判や文明批判を織り込む形で構成しているのですな。
では個別の作品を一つずつ見ていきましょう。


●猫
頭がぱんくした男の話ですな。短編集の導入部分のこの話は、それまで、ごく当たり前に生活していた社会人の感覚から突然ずれていく暗示であり、この短編集の中では導入時のブリッジの役割を担っています。

●水中花
入水自殺の話ですな。病状の暗示。冷たいはずの水に「あちい」と感じる感覚の逆転は、生と死の感覚が逆転して、「死んでしまったのかしら」という現実の社会から切り離された、あやふやな状態になることを暗示しています。
※noteにも掲載

●それは酷い片思いで
入水の続きでもあり、あやふやな状態に対する解釈の自由度の提示でもありますな。人に対するはずの感情の対象が、人ではないものにも向けられている現代社会に生きる人のカリカチュアになっています。再録作品。

●南国みやげ
カテゴリーや分類に本当に意味があるのかという短い寓話ですな。意味のないクラス分けに翻弄される社会のあからさまな風刺。短編集の構造でいえば、みやげの話は男が田舎に帰る予感を持たせる形です。
※noteにも掲載したものを改題の上、加筆修正

●虹を殺す
ベタでお恥ずかしいのですが、虹は多様性の象徴というわかりやすい話ですな。次々に現れる多様性と、それを消そうとする社会という構図。主人公は、結局それを消極的な形で否定するわけです。しかし、それは秩序よりも混乱を選ぶという選択肢にほかならぬことを知っているわけで、その上で個人の選択では何も変わらぬ、一種のあきらめも感じながらも決断を行っているわけですが、それは何も珍しいものではないという話ですな。
※noteに掲載したものを加筆修正

●お面様
実際に高知県物部村で見た仮面をイメージして、谷川健一の『魔の系譜』から題材をとった話です。情という観念が社会を動かしている部分は、通常ならば目に見れるものではないわけですから、当然、意識しにくいものであるのですが、面を介在することで現実のものとして目に見えて現れる形です。

●大統領補佐官
集団意識が操作されて知らず知らずのうちに誘導されていく大衆が為政者を選ぶという話ですな。怪しげな財団が動いている一種の陰謀論ですが、それに気が付けば社会から隔離されるわけです。社会と大衆操作というのは「虹を殺す」から引き継いでいるテーマですな。

●シャーツー・カンツーの恋愛小説
来るべき未来社会像の誇張ですな。既に現在社会においても、ほとんどの場合、ものを食べるための労働も実際の採取や狩猟といった直接的な行動とはかけ離れて、市場の相場や売買と言った情報に支配されているわけです。この情報がさらに力を持って暴走していくと、やがて誰にも関連性がわからないような情報が、人間の行動そのものを支配する世界になるという話を誇張して描いている形です。ソ連のような巨大官僚主義国家批判であることを判りやすくするために、レーニン全集から引っ張り出して来たりしていますな。
●おしまい
傲慢と死というのがテーマですな。戦争みたいな極限状態においても、軍隊の階級といった社会性をもった関係に依存し横柄にふるまう人間をカリカチュアしているわけですが、そうしたものをあっさりと超える超自然的な存在や、さく裂した爆弾に見られるような、突然の暴力があるわけです。あっさりひっくり返ってしまうような社会の約束事に拘束されつづけている人の姿でもあります。

●夢四話
漱石の『夢十夜』のもじりですな。四は死の暗示。短編集の中に短い夢の連なりを入れるという「入子状の構造」になっています。四話目を書くための三話で、断片的な夢の中に時折姿を見せる夢の中に存在する世界の話は、邯鄲の夢はもちろんですが、一休禅師の説法として知られているカタツムリの瞳の中に九十九の世界があるという話の影響を受けているわけです。どういう話かというと、そのカタツムリの目の中の世界にも、またカタツムリが存在しており、同じようにその眼の中には世界があるという話です。カタツムリが一生を終える間に、その世界もまた始まりと終わりを迎えるわけなんですが、この世界もどこかのカタツムリの目の中の世界かもしれぬわけで、そう考えると世界というのはほんの刹那の出来事かもしれぬというわけです。短編集の構成上は、我々が生きる世界も、目が覚めると消えてしまう誰かの夢の中にある刹那な世界かもしれないという暗示の役割を担っています。 

●クレゾール1783
人知を超えた物質に翻弄される社会や人々をカリカチュアして描いているわけです。意味がない仕事に誇りをもって一生を費やす人もいれば、欲望や本能のまま生きる人もいたり、世捨て人のようになる人もいたりするわけです。個人はもちろんのこと、人間の築き上げてきた文明や社会システムでは抗えない物事の流れを引き起こす存在があるというわけです。単純化された自然災害やゴジラのようなわかりやすいイメージではなくて、本当の起因の正体というのは何かよくわからないままに付随する出来事が大きくなっていく文明社会の作用の指摘でもあります。 

●D
死の暗示。言語化の限界がテーマですな。隔絶。孤独。世界というのは、それぞれの個人中に構築されている虚ろなものでしか無いというテーマは『夢四話』からの引継ぎです。しかし全てのものが消えてしまうという考えには否定的で、骨なり残るものの理想形を夢想しているわけで、その中で「単行本」というのが「残すもの」の一つのキーワードになっているわけです。 

●四日余り
都会から離れて田舎に戻るのですが、田舎にも田舎の社会があるわけです。社会に入り込めぬ予感を感じつつも、一方で人は社会から逃げられぬ存在である事を感じているわけです。また短編集の構造としては、現実ではない感覚に一歩足を踏み入れていることを自分で自覚している形になっていのは少しばかり意味があるわけで、警告であったり、アウトサイダーとしての生き方であったりするわけです。



全体像として、短編集全体の構成としてテーマ性を重複させていたりダブルミーニングがあったりするわけなんですけれども、主要なテーマ遷移を抜き出してみますと、大筋はこのような流れになります。

・病気の男 社会からのかい離
・死
・個人と情念
・社会ルール
・社会秩序
・社会と情念
・操作された大衆
・情報と文明社会
・社会階級の崩壊
・うつろな世界
・人知を超える力
・死
・病気の男 社会からのかい離



この天丼構造というのは、上から下と、下から上の構造になっておりまして「社会や文明の本質を見ようとすれば社会からの遊離した存在にならねばならぬ」のではないかという一つの提議と、それを逆説的に言えば「本質を見てしまうと遊離しなくてはならぬ」という事を、構造的な配置で暗示しているわけであります。 まぁこの辺りの話になると、お読みになっている方の1%も気が付かぬだろうという様なところではありますけれども、正解が判るのかどうかという話ではなくて、通読して頂いた方の何割かが少しでも「なんかあるような?」と思っていただければ十分だと考えておる仕掛けなわけです。 


もちろん、こうした仕掛けやテーマ性が「わからない」とか「評価しない」というのは良いのですよ。あるいは「つまらない」とか「出来が悪い」とか「失敗している」いう評価があっても当然かもしれません。しかしながら、文学に関する素養が無い方なのかもしれませんけれども、まったくそういう事に気が付かずに「内容が無い」と言い切られてしまうのは、いささか考える所があったりするわけです。
作中には、かなりわかりやすいヒントもちりばめていたつもりなんですが、わたくしの筆の至らぬところなのでございしましょう。どうしたもんかなぁ。。